前回お伝えした通り、承認(肯定)欲求というものは、私たちにとって、最も切望している欲求であることがわかりました。
私たちは承認(肯定)されること、認められることで、直接的な目の前の欲求や願望を満たすことができるだけではなく、そこから派生していく「有形無形の報酬」を得ることが可能になり、そこでもさまざまな欲求や願望を満たすことができます。
ここまでは承認(肯定)されるということは、とても素晴らしいことです。それは間違いありません。
しかしながら、あることをきっかけにして、今度は承認(肯定)されたことで、やっと手に入れた欲求や願望、築き上げた人間関係に反対に気持ちがとらわれてしまうようになってしまうということがあります。
あることというのは、自分が上司や周囲から認められるということです。認められるきっかけは、仕事の素晴らしい成果であったり、普段からの周りに対する気配りや地道な努力の姿勢であったりとさまざまです。周囲から認められると、同時に「再現性」を求められることになります。
つまり、認められることと一緒に再現への「期待」もついてくるわけです。この「期待」に応えなければならないという意識が本人を苦しめていくことになっていくことがあります。
そして一度、そこに陥ってしまうとなかなか逃れられなくなってしまう状態、それが太田肇氏が語る「承認欲求の呪縛」です。
では、なぜそこまでとらわれてしまうのか? なぜそれを手放せないのか?
私たちはだれでも普段意識しているかいないかは別にして、自分の周囲からなんらかのかたちで承認(肯定)を得ているものです。
その見えない承認(肯定)によって得られたもの、例えば、内発的モチベーション、自己効力感、評価や処遇への満足感などは、その源泉である承認(肯定)を失えば、それらすべても失ってしまうという漠然とした「不安感」があるからです。状況によっては「焦燥感」にもなり得てしまいます。
それらを失ってしまう時の価値というのは、得る時の価値よりも、すでにとても大きく、且つ本人には当たり前の状態になってしまっています。上司や周囲から認められている状態がごく当然のこととなってしまいます。
従って、人によっては承認(肯定)されることを、最初からそれほど求めていなくても、いったん承認(肯定)されて、その「素晴らしい効果」を味わってしまうと、今度はそれを手放すことができなくなってしまいます。その時に働いている心理状態が「保有バイアス」と呼ばれるものです。
太田氏はまた、過労死や自殺の場合も、陰にはこの承認(肯定)欲求の呪縛が潜んでいると考えられるといいます。その責任感と真面目さのためから、上司や周囲からの期待を真正面から受け止めてしまい自らを追い込んでしまうのだといいます。
このようなケースに陥ってしまわれる方というのは、職場や仕事での様々なことに対して、すべて完璧に対応しようとしてしまい、結果的に本人の容量オーバーに突き当たってしまうのではないかと太田氏はいいます。
さらに、このような生真面目なタイプは、ある意味では会社にとって模範的とされたタイプであり、じつは日本人には大変多いタイプであるといいます。
日本の企業では、責任感が強くて仕事をまじめにこなす人には、次々に仕事がやってくる傾向があるものです。本人も、最初はそれを自分の能力を会社が買ってくれている証として大いに意気に感じ一生懸命に仕事をしていきます。しかし、やがて本人の持っているキャパシティを超えてしまうことがあるのです。
一方で、このような真面目で几帳面なタイプの人というのは、それほど強い承認(肯定)欲求を持ってはいないように見えるものです。ガツガツする「俺が、俺が」タイプとは無縁のような人です。
しかし、太田氏は冷静に見ると、これらの人であっても「消極的な」承認(肯定)欲求を持っているといいます。
厚生労働省の「毎月勤労登記調査」(2017年)によれば、正社員の年間総労働時間は2026時間です。また、年次有給休暇の取得率は欧米諸国ではほぼ100%なのに対して、日本は49.4%(厚生労働省「就労条件総合調査」2017年)となっています。
これをみても「働き方改革」における最大の焦点である労働時間の短縮は、現時点においてはなかなか進展していない状況と見受けられます。そして、この進展しない原因については、「業務の多忙」、「人手不足」等があげられています。
別の調査では、「上司や仲間が残業しているので先に帰りづらい」(10.3%、労働政策研究・研修機構「働き方の現状と意識に関するアンケート調査」2005年)とか、「休むと職場の他の人の迷惑になるから」、「職場の周囲の人が取らないので年休が取りにくいから」「上司がいい顔しないから」が上位にあがっています(同調査、2010年)。
これをみると、多くの社員が上司や同僚への「気づかい」をしていることがわかります。
言い換えるなら「消極的」な形で「周囲から認められる」ために、残業したり有給休暇を取らなかったりしている実情が見えてきます。
思えば、私も会社員時代に数名のチームで1つの業務を請け負っていたことがありました。それぞれのパートは決まっているのですが、やはり帰宅するときはチーム全員で一緒に会社を出るというのが暗黙の了解になっていました。結果的に毎日かなり遅くまで残業していました。さらに有給休暇の申請をしたいけれど、なかなかできずにいたことも思い出されました。
では、そもそも残業することや有給休暇を残すことが、なぜ周囲から「認められること」につながるのでしょうか?
それは、遅くまで残って残業をしている社員や、有給休暇がたくさん残っていても休暇を取らない社員というのは、会社に対して、また周囲の同僚に対して、間接的に貢献しているとみなされているからです。
逆に、早く帰る人や休暇を目いっぱい取る人は、会社や周囲の同僚に迷惑をかけているとみなされていることがあるといいます。少なくとも職場で働いている社員に、そのように意識させるような空気があるということだと太田氏はいいます。
働いている社員の意識のなかには、残業をせずに帰ったり、休暇を目いっぱい取ったりすると、上司や同僚からの承認(肯定)を失うのではないかという不安が染みついているといいます。子育て中の女性で、終業時間が近づくと、どのタイミングで「お先に失礼します」と切り出すかで頭がいっぱいになってしまというケースもあるといいます。
太田氏は、この不安感だけではなく、さらに付随する理由もあるといいます。それは、会社や上司から「認められねばならない」とか「期待を裏切ってはならない」という気持ちを、本人が抱く背後には、より打算的な理由が隠れているともいいます。
それは社会学でいうところの「交換理論」というものが当てはまり、それは「将来得られるかもしれない不確実だが、より大きな見返り」を期待して、先に行動しているということです。
つまり、会社のため、上司のために貢献をしていることで、それが認められれば、今後の人事評価や将来的な昇進、あるいは人事異動等で「有利な扱いをしてくれるかもしれない」と心の中で「期待」するということだといいます。
逆に、残業せずに早く帰ったり、有給休暇を目いっぱい取ったりすると、今後の評価等に間接的に響いてくるのではないかと考えてしまうのではないかといいます。
私自身もサラリーマン時代を思い浮かべると、いくつも思い当たることがあります。各企業や職場において働き方改革を進めていくには、優先度の高い残業と有給休暇の問題を、どのように払しょくしていくことができるか、どんな方策を取れば解消できるのかを、会社と従業員が一緒になって、共に本音で話し合うことがまず必要になってくるものと考えます。