世の中、光があるところには必ず影も存在するものです。私はこれまで承認(肯定)することは良いことしかないと考えてきましたが、今回改めて、太田肇氏の「承認欲求の呪縛」(新潮新書)を読み直してみました。
そして改めて、承認(肯定)することのメリットだけではなく、「デメリット」についても深く認識し直しました。
ご承知の通り、私たちが上司や周囲から承認(肯定)されることを望む気持ちを、承認(肯定)欲求と呼びますが、これはA・H・マズローによれば「尊厳・自尊の欲求」とも呼ばれ、人から認められたいとか、自分自身が価値ある存在だと自分で確かめたい、という人間本来の欲求です。
この承認(肯定)欲求があるからこそ、私たちは努力を惜しみませんし、健全な精神を持つことができ、そして成長していくことができると言えます。
一般的に、特にコーチングにおいては、承認(肯定)することの良い点、素晴らしい点ばかりが言及されてきている傾向があるものと感じています。もちろんそれは1つの側面として正しいものです。
ところが、光あるところに影はあるものです。太田肇氏によれば、承認(肯定)されることによる影も場合によっては強烈に存在しているといいます。
つまり、人は認められれば認められるほど、それにとらわれるようになってしまうということです。太田肇氏は、この状態を「承認欲求の呪縛」に陥ってしまうと呼んでいます。
どういうことかというと、身近な例でいえば、SNSを始めたばかりの人が、最初はまったく期待もしていなかった「いいね!」を思わずたくさん貰ってしまったことで、他人からの「いいね!」評価が気になってしまい、その「期待」に応えなくてはならないと考え、投稿する受け狙いの内容がしだいにエスカレートしてしまうというようなことです。
太田氏は、そういう状態になると「認められたい」が、「認められねば」に変わってしまうと言います。
つまり、周囲からの「期待」が、それに応えて「認められねばならない」となり、本人には、そのことが大きな精神的な負担に変わってしまう1つの要因になると述べています。
そして、その精神的負担はもっと正確に言うと、本人自身が周囲からの「期待」を、どれだけ大きなものとして自分が「意識」しているかによって精神的負担度が違ってくるとも述べています。
そもそも初めから本人自身が、周囲からの期待を「意識」していなければプレッシャーも無いことから精神的な負担も感じることは無いからです。
従って正確には、本人自身にとって周囲からの「期待」が、自分への期待として「認知された期待」であることが、「呪縛」されてしまう要因の1つになると述べています。
その「認知された期待」を裏切ってはならないという強い意識を持つことから、本人が受けてしまう「プレッシャー」こそが、呪縛につながってしまうと言います。
わかりやすい事例として、太田氏はスポーツ選手の例をあげています。例えば、スキーのジャンプの高梨沙羅選手は一度銅メダルを獲ったことから、次の大会では「金メダルは当然!」と期待され、その重圧からか4位に終わってしまい、大相撲の稀勢の里は横綱に昇進する前には、多くのファンの期待を集めながらも何度も昇進できずにいた時期がありましたが、いずれの場合も周囲やファンからの大きな「認知された期待」があったはずだと述べています。
スポーツ選手ならばファンからの期待も大きいことから十分「呪縛」に陥る可能性が高いと考えることができますが、私たち一般人の場合ではどうでしょうか。
つまり、一般人の場合は、誰しもスポーツ選手のように「一番になりたい」というような強い承認(肯定)欲求を持ってはいないのではないかと考えてしまうものです。
ところが、その一般人であっても、なんらかの功績で、いったん大きな「評価」を得てしまうと、それが周囲からの大きな承認(肯定)となってしまい、今度は、それが手放せなくなってしまうと太田氏は述べています。
私たちは普段意識しているかどうかは別にして、さまざまな形で周りの人たちからの承認(肯定)を受けているということです。
それは「気配り」されることであったり、皆と同じ「仲間意識」を持てることであったり、同じ人間関係の輪の中に自分もいるという「受け入れられている感覚」であったりもします。
誰でも周囲から意識的に承認(肯定)されると、モチベーションが上がり、自己効力感、できる感、を強く感じるものです。それで仕事のパフォーマンスも上がるでしょうし、スポーツ選手ならば大きなモチベーションになるでしょう。
それゆえ承認(肯定)すること、されることには非常に有意義で、且つ大きな効果があるものです。
逆にいうと、それほど大きな意義を持つ承認(肯定)であるがゆえに、それが受けられなくなってしまうと承認効果があった事柄がすべて失われてしまうことにつながります。
つまり、それまで受けていた承認(肯定)効果としてのモチベーション、自己効力感、できる感等がすべて消えてしまうことになります。そうなると「自信」も消えてしまい、気力も萎えて、意欲もチャレンジ精神も無くなってしまうでしょう。
ここで、人によっては「自分は他人様からの承認(肯定)など必要ない。実力で十分やっていけるから」と思うかもしれません。
しかし例えば、サラリーマンでこれまでずっと管理職をやってきた方が、50歳になったことから役職定年に該当し、いざ役職が外れることになった場合、仮に当初はそれほど管理職自体に就きたいとは思わなくて管理職になっていた人であっても、一度就いていた役職の地位を奪われるとなると心穏やかではないはずです。
つまり、たとえ承認(肯定)されることを、当初それほど自分では求めていなかったとしても、いったん上司や同僚から承認(肯定)されてしまうと、今後はそれを手放すことが惜しくなり、また怖くなってしまうのです。そして、これが「呪縛」につながっていくと太田氏は言います。この時の心理状態を「保有バイアス」がかかっていると言います。
これを会社や職場に置き換えると、上司が部下に「期待しているからな」と、部下のモチベーションを上げようとして言ってしまうものですが、この時の部下の状況によっては、上司の期待がプレッシャーとなって、逆に悩んでしまう(呪縛に陥ってしまう)こともあり得るということです。重症になると、それまで無遅刻無欠勤だった有能な社員が、突然会社に来なくなったり、退社してしまうこともあると言います。
従って、部下を肯定したり褒めたりできる立場にある上司が、部下を承認(肯定)する場合には注意も必要であるということです。
例えば、ある仕事を与えて上司が「期待しているからな」と伝える場合、部下本人の能力や実力が仕事をクリアできるレベルにあるならば、部下は仕事の達成に対して強いプレッシャーは感じないでしょう。
ところが、自分にとって今度の仕事はかなりの努力が予想され、無事にクリアできるか自信が無いと感じていると、上司の期待レベルと自分の実力とのギャップに悩んでしまい「呪縛」に陥ってしまいやすいのです。
「なんとかして期待に応えなければならない」、そうしないと「これまで築いてきた自分に対する上司の評価や周囲の評価もすべて失ってしまう・・」と深刻に悩み始めてしまうことがあるからです。
つまり、上司からの期待を、本人に備わる真面目さと責任感と几帳面さから、真正面から受け止めてしまい、なんとかして「期待に応えねばならない」と自分を追い込んでしまいかねないということです。
そして遂には思わぬ行動を取ったりしてしまうということがあり得るということです。もちろん、本人の性格やタイプも関係してくるでしょう。私もこれまで安易に「期待しているよ」と声を掛けてしまっていたことを思い浮かべました。
ではどうすればいいのでしょうか。
それは、例えば「期待しているからな」と声を掛ける前に、今回の仕事レベルと本人の実力レベルが大きく乖離していないかどうかを考えてみること、そして声を掛けっぱなしではなく、その後も時折り本人の様子に注意しながら必要ならばフォローしていくという姿勢が必要になると思います。
私自身、この「承認欲求の自縛」については十分に心に留めておかねばと思いました。
次回は、さらに深掘りして、「働き方改革」が職場でなかなか進まない理由の1つにも、じつは承認(肯定)されること、認められることが深く関わっていたということをお伝えしたいと思います。